2009.1.12最終修正
戦中の今西錦司をめぐっては,3つの研究所を見逃すことはできないだろう。 その3つとは、
・興亜民族生活科学研究所
・国防科学研究所
・西北研究所
である。
このうち,興亜民族生活科学研究所は今西が最初に就職したところ(京都帝国大学医学部公衆衛生学教室内にあった)であり、研究員として就職し助教授なみの給料をもらったと自伝にある。今西には助手が1名ついていた。研究所は大東亜省や興亜院の資金によっており、所長は戸田正三(のちに金沢大学学長、京都大学に銅像がある)であった。
西北研究所(張家口[Wikpediaの説明]にあった、1944-1945)は今西が所長をつとめたことで知られている。石田英一郎(のち東大教授)が副所長であった。
記録などがもっともとぼしいのは,国防科学研究所である。この研究所は大興安嶺探検(1942年)の母体である。国防科学研究所と石原莞爾が所長を務めていた(1941-1942年)研究所[国会図書館の資料紹介ページでは同名]が同じものかどうか確認が必要である。
また、民族学研究所(文部省直轄の研究所、1943-1945)の嘱託も、石田英一郎とともにつとめていた(坂野徹、『帝国日本と人類学者』勁草書房による)。
戦中期、日本は、研究者を配置した多くの機関を中国に設置していた。「3つの研究所」もそういった機関たちとの関連で見るのが適切である。また、多くの機関が中国に設置されていたこともあって、研究者が、たとえば西北研究所(当時の察哈爾省の張家口が所在地)を訪れることもあった。他機関(ないしはそこに所属する人)との交流がはっきり書かれている例として、北支那防疫給水部の研究所(北京)の篠田統の例がある。また、訪問の記録の例としては、飯塚浩二(「飯塚浩二著作集」参照)がある。
そういった機関(研究者を配置していても、そもそもが研究目的ではないものもあるので、研究機関と書かなかった)は敗戦に伴い、たいていはなくなっている。
場所は中国であるから、中国の大学や研究機関はどうなっていたのか、中国の研究者はどうしていたのかと問うことも必要な見方であろう。この時期、かなりの数の中国の大学は、日本による占領地から逃れて、重慶などへ疎開(設備の多くや建物はしないー人が疎開したという意味である)していた。
自伝などから明らかに、今西が最初についた職は、興亜民族生活科学研究所の研究員で、もちろん敗戦以前のことである。この研究所は、政府の資金による研究所であり、今西がついた職は助教授なみの給料に加えて助手を選べた(要するに、自分のポスト以外に、自分で人選できるポストが1つあるということである)というものであった。助手は森下正明(のち西北研究所員、京都大学理学部教授)であった。
自伝など見るのが容易な刊行物上での記述があり、それをくつがえすような史料はないにもかかわらず、今西はずっとめぐまれたポストにつけなかったという「今西不遇神話」とでもいうべきものはなぜか根強かった。だが、少なくとも、この時期やそれに続く時期(研究所の所長になったわけである)にはあてはまらない。
張家口は中国の現在の領土から見ても、明くらいの時期で考えても、とくに北西にあるわけではない(北京の北西にはあるが)。西北とは、方向というよりひろい地域の名称(日本でも、北東地方とはいわず東北地方という)で、モンゴルとの国境から新疆をへて旧ソ連国境に連なる地帯である。当時、この地域に住んでいる人々(イスラム教徒などが多いと認識されていた)を反中国・親日本にすることにより中国との戦争を有利に進められないかというアイデアが日本では議論されていた(西北問題)。チベット方面に派遣された有名な二人のスパイ(結局インドまでいって投降ー冒険記[下記の、西川、木村]は文庫本にもなり広く読まれている)はこういった背景のもとで考えると分かりやすい。この二人が、西北研究所を設置した蒙古善隣協会と関係が深いことは今西自身のものを含め多くの文献で指摘されている。
第二次大戦末期、張家口にあったこの研究所はいわゆる豪華メンバーである。まず、今西錦司所長で石田英一郎(のち東大教授、多摩美術大学長)が副所長なのだから。石田英一郎らとの対談(座談会)も戦後になって行われている。
文献リストにもあげた『西北研究所要覧』は、設立当時に作られた公式の文書と考えられる。また、今西自身や梅棹忠夫、藤枝晃などの回想も発表されて活字になっている。
今西錦司,私の履歴書 増補版今西錦司全集第10巻,講談社に所収
今西錦司,張家口落ち 増補版今西錦司全集第2巻,講談社に所収
斎藤清明,今西錦司 松籟社
梅棹忠夫,回想のモンゴル 中公文庫
磯野富士子,冬のモンゴル 中公文庫 [時期的には前になるが、ラティモア「トルキスタンの再会」とあわせて読むと興味深い]
本田靖春,評伝今西錦司 山と渓谷社
藤枝晃,西北研究所の思い出 奈良史学,56-93
今西錦司編,大興安嶺探検 朝日文庫
山口昌男,河童のコスモロジ− 講談社学術文庫
石田英一郎,石田英一郎対談集 ちくま書房
中生勝美、内陸アジア研究と京都学派 西北研究所の組織と活動 植民地人類学の展望(中生勝美編、風響社)所収
川村湊「大東亜民俗学」の虚実 講談社
坂野徹,帝国日本と人類学者 勁草書房
寺田和男、日本の人類学 角川書店
日本モンゴル協会,善隣協会史 日本モンゴル協会,1981
蒙古善隣協会,西北研究所要覧 蒙古善隣協会,1944
北支那防疫給水部業務詳報[篠田統に関する記述][1855部隊]
野村達次・飯沼和正,六匹のマウスから 講談社[安東洪二に関する記述 ]
埼玉県立庄和高校地理歴史研究部+遠藤光司、高校生が追うネズミ村と731 部隊 教育史料出版会[安東洪二と篠田統の周辺に関する記述]
徳王自伝 岩波書店
前田哲男,戦略爆撃の思想 朝日新聞社
尾崎秀樹,近代文学の傷痕 岩波書店
エリノア・ラティモア,トルキスタンの再会 平凡社
長尾雅人,蒙古ラマ廟記 中公文庫
木村肥佐生,チベット潜行十年 中公文庫
西川一三,秘境西域八年の潜行(上)(中)(下)中公文庫
江口圭一、日中アヘン戦争 岩波新書
戦中期の中国における日本人知識人たちのクロスロ−ド−中国での今西錦司をめぐって 現代思想21(1):226-231.1993
このペ−ジでは歴史上の人物として扱っておりますので、原則として人名には敬称がつきません。
当時のかいらい政権等の名称や地名がそのまま表記されることがあります。
中国の政府が重慶にあったり,大東亜省という省が出てくるなど奇異に思う記述に出会うことがあるかもしれません。時代背景をふまえてお読みください。